過去の何処かに置き忘れた物

  • 2011.01.29 Saturday
  • 15:50




























皆さまは息災でお過ごしでしょうか?

ここ数日は、「サニー(by ボビー・ヘブ)」を聞きながら、
二十歳の頃に好きだった、
桑山千草さんを思い浮かべている龍索堂です。

彼女から生まれて初めて貰ったバレンタインチョコレートの
季節が近づいてきたからなのですが・笑

私の夫人がご機嫌な時、彼女と同じような言い方で話し、
同じトーンの声で笑うのを見ると、
なんだか不思議な気持になります・・・。


それにつけても、暫くの間、記事の更新をしなかったのですが、
記事の無い時の方がアクセスが多いというのは
一体全体、なぜなんでしょう?笑

 * * *

最近は、探し物をしています。

昔、若い頃に、
やろうと思ったけれど、しなかった事
行こうと思ったけれど、行けなかった処
手に入れようと思ったけれど、集められなかった物
それらを探しているのです。
ですから音楽も、私が10〜20代に聴いていた
1960年代〜1970年代のCDを集めて聞いています。

本当に欲しかった書籍は、数十冊ほどあるのですが
それらは今となっては稀覯本ですので、
乗用車数台が買えるほどの
資金が無ければ手には入りませんから、
残念ですが、古文書の蒐集は諦めました。


一般的に、「探し物をする」という行為は、
自分の所有欲を満たすために集めるわけです。

しかしながら、
現在の私が探し物をしているのは、
過去に残してきた思いの全てを捨て去る為です。
なぜそれをするのかというと、
『事物に執着を残したまま、この世界を去りたくない』
と思うからです。

つまり、目に見えるもの、耳に聞こえるもの
それだけではなくて、
過去の何処かに置き忘れてきたであろう
自分の思いというエネルギーを探しているのです。

ですから、物は過去の自分を思い出す媒介でしかないのですが、
まぁ、てっとり早いですからね。

そして、過去に置き忘れたエネルギーを探し出した後には、
いささかの思いも残さないで、
空を駆け抜けて行きたいのです。

 * * *

よく人は、
“一緒に暮らした夫婦や家族と、また同じように暮らしたい”
などと言います。
(この前もテレビのインタビュアーの質問に老人が答えて言っていました)

しかしそれは、
「今現在をとても幸福だと感じている人」の言葉でして、
「今世をとても苦しいと感じている人」は絶対に
“来世も今生と同じ様にありたい”とは願いません。

必ず、“今生では叶えることができなかった願いを、
来世ではきっと叶えたい”
と言うはずです。


しかし、人類の発生以来、
戦争・紛争は絶えたことが無いわけですから
世界中には、幸福を感じている人より
不幸を感じている人の方が多いはずで、
つまり、世界中には
“来世も今生と同様に暮らしたい”と願う人は、
とても少ないはずです。

また、現在が幸福(あるいは不幸)だからといって、
それらを来世に持ち越すことができる(あるいはできない)
という保証など、どこにもありません。

そして、今生において解けなかった難問を来世に持ち越し、
宿題のようにこなす事も、誰にもできるはずなど無いのです。


と言いますと、すぐ短絡的に
 “来世は想像の世界でしかないのならば、無いのと同じだから
  この世の中では、法律違反や背徳や、悪事の限りを尽くして
  自分の思うまま、好き勝手に生きればいいではないか?”
と考える人がいます。

しかしながら、悪事を為したことで、
結果として、自分に残された余生に
後悔の念を抱いて生きて行くのは
とても辛いことです。

私は、そういう人を幾人も知っていますが、
相手がすでに亡くなっていたり、
どうしても再び会うことが出来ずに、
償う術の全く無い場合、
どれほど後悔しても悔やみきれません。
ですので、とても辛そうでした。
(彼等は、悔恨の念を残したままこの世界を去るのでしょうね・・)


仮に、悪事を為したことを僅かにでも思い返すことの無い
反省とはおおよそ無縁の人であったとしても、
その人が此の世を去る一瞬の間、
“悪い事をした”と後悔するのであれば、
想像を越えた地獄世界ともいうべき処へ墜ちることになるでしょう。

但し、もし運良く、悪事を一片たりとも後悔しなかったとしても、
必ず何処か遠い処で、それ相応の精算はしなくてはなりませんが・笑


ですから、良きにつけ、悪しきにつけ、
誰にとっても、
今この一瞬は、とても儚いが故に貴重な瞬間です。


戦国時代の大名達が、
高価な道具を必要とする「茶の湯」を嗜んだのは、
自分の命は、明日はどうなるか分からない儚いものだと
知っていたからでした。

商人や農民のように、年貢を納めてさえいれば、
生きることを保証されているのとは違って、
戦争に赴いて命懸けで戦うことが職業の武人にとっては、
現在でも、死ぬことはとても身近なものです。

であるからこそ、
“自分が長命する事が叶わないならば
せめて子孫だけは生き残る事を”と、
とても強く願っていたはずです。
(NHK大河ドラマで浅井一族の滅亡を見ながら・・・)


 * * *


私たちの知るこの世界は、
人間が創造したわけではありません。

また、この世界を創造した主宰神を
認めようと認めまいとにかかわらず、
私たちは、僅か百年に満たないつかの間の旅人です。

ですから、出来る限り
「来た時よりも美しく」を心がけて、
名もない路傍の花のように、
少しだけでも、世界を美しく飾った後で、
潔く立ち去りたい。

最近は、そんなことを考えています。





今日もお越しくださってありがとうございます。
(次回の更新は未定です)


アヴェ・マリア(カッチーニ)by ナターシャ・グジー
を聴きながら。

天の狼の星

  • 2011.01.18 Tuesday
  • 08:29

































皆さまは息災でお過ごしでしょうか。

毎年この時期、1月から2月になると
激務で多忙です。

それは、捨て去ることのできない過去にしがみつきながら、
望まない未来という幻に脅えているからなのですが・・・笑

しかしながら、
もう、そういう事を繰り返すのも
だんだんと終わりに近づいていると感じています。


そして毎年この時期は、夜になると
必ず南の天空を望んでいます。

かつて羅針盤やGPSコンピュータが無い時代、
航海の行く先を決める為に、
オリオン座の中の住吉三神
(上筒男命・中筒男命・底筒男命)を目印にしながら
航海をしていた海部族や安曇族(共に海洋民族)と同じように、
私は、オリオン座の左側に見えるシリウス(天狼星)を
眺めているのです。

私がシリウスを見ているように、
シリウスに居るどなたかは、
地球上のチッポケな私を見ているでしょうか?と思いつつ・・・・
生きとし生けるすべてのものへ捧げるために歌を歌います。
(今は、スコット・マッケンジーと共に
「花のサンフランシスコ」を合唱しています)

これは、もう40数年前の名曲ですが、
Uチューブ動画では、若いスコット・マッケンジーが
今でも昔と同じように歌っているのを見ると
なんだか不思議な気がします。



 * * *


業務多忙のため、当分は記事の更新が難しいので
悪しからず御了承ください。

皆さまも息災でお過ごしください。   龍索堂拝具

祈願成就

  • 2011.01.11 Tuesday
  • 12:00

























今年も正月三が日に、
真澄田神社、熱田神宮への初詣を無事に終えて
(蓬莱軒本店のひつまぶしを頂いて・笑)
穏やかな正月を過ごすことができました。


私が、なぜ、毎年正月、
お宮へ初詣に参拝するのかといいますと、
【日本の祖神へご挨拶をする】ためです。

日本のお宮には、韓神(カラカミ・伽羅神)といって
古代伽耶国から渡来された神々をお祀りしている処もありますが、
いずれにせよ日本建国に尽力された祖神に違いはありません。

私がもしインドに生まれたのなら、お正月には当然
シヴァ、ビシュヌ、ブラフマー寺院に参拝します。

しかし、どこの神社仏閣に詣でても、
それは自分の願い事を奏上するためではありません。

昔は、皆と同じように、家内安全などを願っていたのですが、
今では、『今日お参りできることへの感謝』を奏上するだけになりました。
と言いますと、キレイゴトのように思われるのですが、
私もだんだん高齢者に近づいてきましたので、
桜の花見も、初詣も、
残りを数えることができるようになってきましたから
実のところ、それ以外の祈願はなにもありません。


お宮や、お寺にお参りをするときには、
誰もが皆、必ずといっていいほど、
商売繁盛、受験合格、良縁成就等々のお願い事をします。

しかしながら、
“所持している金の中から僅かな小銭を賽銭として差し上げて
分不相応の願いを叶えてもらおうとするのは、どうにも下品に思えてならない”
二十歳の頃に、そう思うようになってからは、
何かを祈る、という事をしなくなりました。

もちろん祈願をする事そのものが悪い、
と言っているのではなく
自分に相応のモノや結果を得たいと願うのなら、
努力をする自分にこそ頼るべきで、
殊更に、ご多忙の神様や仏様に願う必要などありません。

しかし、意図せずに自分の努力以上の結果を得たのなら、
そこには、多分に神霊の働きがあるはずですから、
祈願をした、祈願をしなかったに関わらず、
自分の信じる神仏に感謝の御礼を申し上げるべきです。


最近では、祈願の仕方どころか、
礼拝の仕方も知らない人が、
神様や仏様、神霊のいらっしゃる霊地や聖地にお参りして
その力にすがり、願いを叶えていただこうとするのが流行だそうですが、
果たして、いかがなものでしょうか?


祈願には、最低限しなければならない祈願の仕方があるのですから、
その共通する部分だけを記しましょう。
これが年頭に皆さまへ差し上げる贈り物です。


 * * *

祈願の仕方
(1)斎戒沐浴をしてから神仏に祈願を奏上する。
   “七日間お参りしますのでどうかこの願いを叶えて下さい”
   というように祈りを奏上する。
   (最低3日、7日、21日というように奇数日を決める、場合によっては1ケ月間)

   この期間には自らの欲望を慎むことを心がけます。
   禁酒、禁煙、お茶断ち、などのように、
   自分の嗜好品を断つこともあります。(これを断ち物といいます)


(2)一定期間は毎日参詣する。
   参詣出来ない場合には自宅で行う。
   もしできなかった場合は、初めからやり直す。


(3)期間が終わる満願の日に御礼参りをする。
   願いが叶った、叶わなかったのを問わずに、必ず御礼参りをする。


これは御百度参りや、子の刻参りのように、
昔は、誰でも知っていた最低限の祈願の仕方です。


このように、
謙虚な心持ちや真摯な姿勢を保ち、
心慎んで一定の期間祈ることせず、
ただ賽銭を投げ、願いをして終わり。

挙げ句の後には、
 「願いが叶わなかった」、
 「この神仏は効験あらたかでなかった」
などと言い、別の神社仏閣に渡って行く人も少なくありません。

しかしながら、
そもそも人間が幸福に成ることこそが神仏の判断基準なのですから、
【当人にとって分不相応な願いが叶うことが、結果として幸福をもたらさない場合】
願いが叶わないことこそが恩寵なのです。

あるいは、気付かない心のどこかに、
心得違いがあるはずです。


そういう神仏の御心にも思い至らないのでは、
それを祈願とは言えません。



もし本当に祈る心があるのなら、
賽銭よりは、造営基金を差し上げるべきでしょう。

神社仏閣は、10年20年毎に大がかりな補修工事をしなくてはなりませんので、
一年に一度集まる小銭の賽銭では賄えないほど多額の資金が必要なのです。

ですから、どこでも『造営基金を差し上げたい』と申し上げれば、
たとえ受付場所がなくても、
必ず喜んで受け取ってもらえるはずです。


そういう心遣いこそが、神仏にとっては有り難いのです。




いつもの方々、初めての方々、
今日もお越しくださって有り難うございます。

次回の更新は、来週です。

「ラヴァーズ・コンチェルト」by サラ・ヴォーンを聞きながら

粛啓

  • 2011.01.01 Saturday
  • 07:00




























年頭にあたり、皆さまにとって
慶事、祝事の多い一年でありますよう
祈念申し上げます。m(_,_)m


12月下旬に、いつもの喫茶店で
モーニングコーヒーを飲んでいたところ、
“龍索堂さんはお正月に何をしているの?”
と店主に聞かれました。
(それから数日、店主は常連客のみんなに同じ質問をしていました・笑)


『私は日本人ですから、お正月は、
この十数年、神社詣での繰り返しですよ。
1月1日は、一宮の真澄田神社へお詣りして、
2日か3日には、三宮の熱田さんへお詣りします。』

“一宮、三宮??”

『ええ、日本は昔の国ごとに
どの地域でも一宮、二宮、三宮があるんです。
時代と共に入れ替わった国もありましたが、
尾張の一宮は真澄田神社。
二宮は大縣(おおがた)神社で、三宮は熱田神宮です。

美濃の一宮は南宮金山彦神社、飛騨の一宮は水無神社、
三河の一宮は砥鹿神社、遠州の一宮は小国神社。

飛騨の水無神社は遠いので参拝したことはありませんが、
尾張大國魂神社、津島神社、針綱神社、伊奈波神社、
内津神社、猿投神社、諏訪大社・・・
この近辺のたいていの名社には参拝しました』

“へぇ〜、それぞれ國ごとに
一宮、二宮、三宮があるなんて知らなかったなぁ”

『私の5代前の父方の祖先は西濃の出で、
母方は郡上の出なんです。
しかし4代前からは尾張に移り住んでいます。

私自身は、熱田の生まれですので、
産土神の熱田神宮にお詣りするんですが、
その前に、まず、この尾張地方の祖神である
真澄田神社へ詣でることにしています。』

“ふ〜ん”

『初詣は神社でなくて、寺院でも構わないんですが、
私の場合は、神社が圧倒的に多いですね』

“へぇ〜、神社めぐりも面白いですね”

『そうですねぇ。
私の場合、お宮参りは歴史の学習とセットです。
でも、初詣をするのなら、せめて神社のご祭神の神名、
寺院なら本尊の御名前くらいは覚えてから
参拝したほうが良いと思います。

みんなそうですが、
誰だか見たことも聞いたこともない
神仏に手を合わせて祈るのは、
いかがなものかと思いますよ・笑』

“ふ〜ん”


 * * *

ということで、私の家族の体調が良ければ、
神恩感謝の初詣をして、
蓬莱軒本店のひつまぶしを頂きます。


皆さま、本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 龍索堂粛言

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